土に生き、人のために生き、郷土「多摩村」を伝える
峰岸松三(みねぎし しょうぞう)さん
大正11年9月、現在の多摩市落合に生まれる。昭和15年、満州建設勤労隊に参加。18年、近衛歩兵連隊入隊、初年兵の教育係を務める。20年9月、終戦とともに復員。その後青年団を結成し、多摩村の発展に寄与する。40年10月、ニュータウン開発のため用地全面買収の告知に署名運動や請願書を提出するなど、既存集落をまもるために奔走。その後も南多摩地区保護司、多摩市議会議員、多摩市文化財審議委員、多摩市史編さん委員として地域に貢献。現在、多摩市商工会議所会頭、エフエム多摩放送(株)社長を務める。平成17年春、旭日小綬章を叙勲。著書に『落合名所図絵』『落合風土記』『くらしぶり図絵』『落合の昔話』など多数。
『我が思い出の記』『多摩の方言』を出版
「自分にできることなら、成る成らぬは別として、先ず目的のために努力する。将来を見通して、ただ一人のためでなく、地域全体が良くなることを考えて努力をすることが大切だね」
峰岸さんの一貫した生き方である。そして、自分の言葉には責任を持つ。いつも厳しく我が身を律する姿勢は、多くの人々から信頼を集め、昨年4月29日春の叙勲で旭日小綬章を受賞している。
現在83歳、多摩市商工会議所会頭を務める傍ら、地域のコミュニティ施設でメカイ作りや多摩の方言などを伝承する。かつての多摩村がニュータウン開発を機に、大きく様変わりしている中、地域の文化を伝えたいという熱い思いが数々の出版物として発刊されている。昨年11月に『我が思い出の記』を、続いて今年2月には『多摩の方言』を出版したばかり。
──国のためと軍隊に往き、命をもらって故郷に帰ってきた。敗戦を経て民主主義への大転換の中で、その時々に何を思い行動したかの記録でもある──
峰岸さんは出版の思いをこう綴った。
昭和18年4月、20歳の時、近衛歩兵として当時東京赤坂檜町の東部第6部隊に入営している。終戦による復員までの詳細な記録は『私の軍隊記録』(平成14年3月刊) としてまとめられているが、『我が思い出の記』には復員後の平和への戦いの記録が描かれている。
昭和20年9月19日、故郷に復員してからわずか10日後に、「これからの日本、郷土の再建は我々の力で」と、落合青年団を結成。多摩村で最初の青年団であった。選挙により団長となった峰岸さんは、その年の暮れ、村の青年たちと共に多摩村青年団をも立ち上げている。
──再建日本を負う者は我々青年である。これからの青年は大いに自己の考えや人生観、青年の進む道を進んで発言し、最高の自治団体を作るようにすべき時だ。──
そして、機関誌『新生タマセイネン』の発行を提案、文芸部を設けた。この中で、峰岸さんは敗戦後の青年の心意気を、小説「土に生きる人々」として描いた。
さらに多様な事業を推進するための部門として、産業部、報徳部、家政部、修養部、体育部を設け、青年たちは郷土再建のために立ち上がっていった。『我が思い出の記』には、これらの記録のほかに、昭和40年10月から起きた多摩ニュータウン開発の経過も綴られている。新住宅市街地開発法によって全面買収となる既存集落を守るため、署名や請願書の提出、交渉など、峰岸さんの戦いの記録と真相が明らかにされている。
「生活の基盤であった田畑の農地を失った人々は職業再建が急務であり、40年を境に純朴であった農村の情緒は失われていった」とある。
克明な記述『私の軍隊記録』
峰岸さんは長い間書き留めた日記をもとに、様々な著書を出版している。中でも『私の軍隊記録』には、徴兵検査から兵役時代までの克明な記録が生々しく書き綴られている。
昭和20年2月25日。本土決戦が迫り千葉県一の宮に駐屯していた峰岸さんは初年兵の教育係を担当。訓練に使用する手投弾を作るため多摩村に向かったその帰り道、空襲に遭遇している。
──全身を火の海の如くにして焼け死ぬ人、爆弾に片足をもぎとられ路上を這う人、背中に焼夷弾の破片が突き刺さった死体、地獄とはこれかと思うようなありさまであった。──
その時峰岸さんは、逃げ惑う母親から託された少女を背負い、火の中を走り抜けている。それから数日後、東京は大空襲となった。
峰岸さんは、故郷の繁栄を祈って戦没した友やわが子、孫たちのためにもと、現在『私の人生記録』を執筆中である。その大作は、峰岸さんの生き方をとおし、戦前から今日まで変貌していった街の歴史でもある。
ひと
もしもししんぶん 2006/08/03 号掲載








