神戸美和子 さん
かんべ みわこ
助産師 町田市在住。1937年生まれ。1945年8月6日広島市東雲町で7歳の時被爆。19歳のとき準看護師資格を得て上京し、東京女子医大病院に勤務。28歳のとき町田市内の病院に勤務しながら神奈川県立衛生学院看護婦学校に進学、正看護師に。その後、32歳で都立高校の定時制に通う一方、助産師となる。1984年お茶の水の明治大学で行われた母親大会に参加、初めて被爆体験を語る。以来、語り部として活躍。
7歳の被爆体験「ひろしまの夏」を語る
「赤紫色の閃光が、私の頭上から覆いかぶさるように、ピカーッと光り、ドーンと腹の奥にひびくような爆音がしました。その瞬間、目の前にあった障子のガラスが、爆風とともに吹き飛び、まるで私をめがけて飛んでくるようでした」
1945年8月6日8時15分、広島に人類史上初めての原子爆弾が投下されたその日、神戸さんは7歳だった。飛んできたガラスの破片は、容赦な少女の顔や手足に突き刺さり、血が流れ出た。
「家は爆心地から約4キロ離れた広島市東雲町にありました。縁側のある部屋でひとりで留守番をしながら、“家族合わせ”というカルタ遊びをしていました。あまりにも突然なできごとに、ただ呆然としていたようです。外から飛び込んできた母が私の体からガラスを抜き取ってくれたことは覚えているのですが、痛いと感じた記憶はないんです」
それでも数日後、神戸さんの髪の毛は抜け落ちた。中学に進学の頃、母親の実家がある岡山へ移り住んだ神戸さんは、「ピカちゃん」とからかわれ、放射能がうつるからと、根拠のないいじめにあう。以来、被爆した事実は決して語ってはならないと、母は娘に堅く口止めをした、という。
復員してきた次兄が、どうしても結婚したいと選んだ女性は、爆心地から500mの工場で勤労奉仕をしていて被爆し、顔や手、肩にまで痛ましいケロイドが残っていた。
「義姉は51歳という若さで亡くなりましたが、その一週間前でした。義姉は私に向かってこう言ったんです。“私の体中を写真に撮っておきんさい。それを見た人が、気持ち悪いとか、ピカは恐ろしいと思うたら、うちはそれでもええんよ。あんた、黙っとらんで、あの日、恐ろしかったこと、みんなにいわにゃ。自分の子どもがかわいかったら、がんばりんさいや”って」
被爆の事実を隠しとおした母と、原爆を止めさせるために立ち上がれといった義姉。広島に生きた二人の女性は、神戸さんに相反する言葉を遺している。
「義姉の訴えは、私に対する遺言だったのでしょう。それでも私は、まもなく結婚を迎える子どもたちを前に、被爆二世であることは言えませんでした」
──はよういわにゃ、また、あんな恐ろしいことが起きるかも知れんのよ。自分の子どもが本当にかわいいと思ってたら、はようピカをやめさせにゃ──
義姉の言葉がいつも脳裡に蘇り、心の葛藤が続いていた。
神戸さんにとって、広島は忘れられないふるさとでありながらも、被爆したがゆえに、偏見と差別に耐えられず、ただ忘れることに執着してきた地との現実があった。
子供たちの命を守りたい 助産師として生きる
神戸さんは19歳の時、准看護師の道を進むため上京している。その後結婚、出産。そしてさらに28歳のとき正看護師になるために進学、昼は病院に勤務しながら3年間夜学に通った。卒業後は助産師を目指し進学、32歳で資格を取得している。
神戸さんが被爆体験を初めて語ったのは、46歳の時、義姉が亡くなって2年が経っていた。
同じ病院で働く看護師と一緒に参加した日本母親大会に参加したときのこと。悩み苦しみながらも、被爆者として生きる道を選び、初めて語った勇気ある被爆体験は、参加者の心を大きく揺さぶった。
「私は助産師として、毎日新しい命の誕生を迎えています。その命が決して戦争で奪われことのないようにと祈るだけではなく、ふたたび被爆者をつくらないために行動を起こしていこうと決意しました」
戦後60年を迎えたこの夏、神戸さんは子どもたちの未来のために「平和祈念コンサート」を開く。再び命が奪われることのない時代をつくるために。
ひと
もしもししんぶん 2005/07/28 号掲載







